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| 今やみんなが忘れているが、そもそも「ニャンニャン」「おニャン子」という言葉がこの世に現れたときは、誰もが、おそらくは私たちまでもがまず何より“アブナイ”言葉として受け止めていたのだし、スタッフとしてもその方面の意図ゆえにこういう命名をしたのだ。だから当然のこと、まず何よりも世間にとって“衝撃的”な言葉であって、「おニャン子クラブ」のメンバーの一単位を示すものとしてもちろん浸透していないばかりか、その衝撃性ゆえに「また妙なものがでてきたわねえ」といった感じで、むしろ単に言葉自体が“アブナイ”ものとして片付けられていたと思う。わらべの高部知子との絡みで「ニャンニャン」という言葉が負の方向性を帯びてはやった後でもあり、おまけに夕ニャンでも文春事件が世間を騒がせたりして、「ニャンニャン」という言葉並びにその響きは、第一にうしろ暗い、品の悪い、いわゆる“シモネタ”に属する種類のものだった。 だいたい、初めの頃(最初からおニャン子クラブに入っていたひと、「アイドルを探せ」でおニャン子クラブに入ったひと、あるいは入れなかった人も含めて)は、自分が「おニャン子」である(あるいは、「おニャン子」になりたい)というよりも、テレビに出ている(あるいは、出たい)と思っていたんじゃなかろうか。テレビに出るということ自体がまず何よりも魅力的なものであって、「おニャン子」というものになるということは、テレビに出る一つの手段、付属的要素にすぎなかったのだ。それゆえに、何がなんでも「おニャン子」になりたいという鬼気迫るような決意を持って「アイドルを探せ」に臨んでいた人が多くなった後の時代(「放課後のクラブ活動」という従来の軽い気持ちではなくて、芸能界に直結する「登竜門」としてとらえられた「おニャン子」に、である。これを石橋貴明に言わせれば「シャレにならない」となる)と違って、もっと楽に、もっと気軽に、もっと“甘い考え”で、文字通り「放課後のクラブ活動」として、テレビに出るということを楽しんでいたのではないか、と。 だからこそ、「おニャン子ファン」なんていう言葉だって、5月頃は当然まだまだ事実上“なかった”んだと思う。何よりもまず個人ありき、で、見ているほうにしてみれば、ある意味でとっても楽だった。立見がいいとかその子が好きとか、新田や内海や富川がいいと思ったときに、「おニャン子の」とか「おニャン子では」などという言葉を使う必要はなかった。素直にストレートに、オレは国生がいい、ナカジがいい、福永と名越のふたりがいい、などと言うだけでよかった……「高井がいい、永田がいい」って。 番組の側(スタッフ)だって、その場しのぎという感じがありありで、あまり後のことは考えてなかったから(これはまさしく「オールナイト時代」からの“古き良き?”伝統)、「おニャン子クラブ」をそれほど前面に出してはいなかったし、大切に扱ってもいなかった。これも、当時のレベルとして、当時の環境として、良かったと思う。 「(夕ニャンが)どうせ半年で終わりだ」というのは、決してすべてが後からの冗談ではなくって、始まったばかりの頃は、スタッフも、片岡鶴太郎やとんねるず(いわゆる「オールナイト畑」の人間)も実際によくそう言っていたし、ただ言うだけじゃなくて、彼らそして彼らに加えて松本小雪でさえもが、結構本気でそう考えていたんじゃないかと思う。逆に言えば、その程度にしか「夕やけニャンニャン」という番組をとらえていなかったんだろう。同じように、「おニャン子」が心構えとしてアルバイト的なら、鶴太郎も、とんねるずも、スタッフでさえもが、あくまで気楽なアルバイトといったふうに(もちろん、彼らにとっては大切な「仕事」だから、100%ではないけれども)とらえていたんじゃないか。 たしかに、彼らスタッフ、さらには秋元康たち“主軸”にしてみれば、新しい番組、それも夕方5時という不毛の時間帯に、夕方としては前例のないような番組を、しかも夕方としては極めて衝撃的なタイトルを付けて始めるのだから、せっかくやるなら当ててやろうというくらいには考えていたかもしれない。そして、どうせやるなら徹底的に遊んでやろう、と。けれど、それにしても、彼らの番組作りの余裕というか気楽さというのは、あくまで本来の場所は深夜(オールナイトフジ)にあるんだよという一種のシェルターがあったからこそできたのではないかとも思う。そしてその意味で、秋元がいくらこの奇妙な番組、並びにそこに出ている奇妙なグループを一発当ててやろうと思っていたにせよ、結局、かなりの部分でアルバイト的であったということは、完全に否定することはできないと思う。 ……逆に言えば、そういう臨み方も奏功したのだと思う。気楽さや余裕といったものがなく、あくまで“本職”としてガチガチの気概を込めて作っていたなら、きっと、あの時代に、あんな爆発的な受け方はしなかったんじゃないか。1980年代の中頃というのは、きっとそういう、アルバイト的な風潮が社会を支配し始めた時代だったのかもしれないし。 まあいい。話は「おニャン子」のほうへ戻るが、そもそも、鶴太郎やとんねるずに比べて、「おニャン子」はまだまだ脇役の脇役、変なレポートを“顔見せ”の意味ではなくてさせられたり、踊らされたり、雑務をこなす使いっぱしりみたいなものだった。すでに名のある浜村淳や三宅裕司はともかく、慶応法学部の深田甫教授(ドイツ文学。元オールナイターズ深田素子の父)や八神康子、渡辺めぐみ、岡本かおり(佳織)、伊藤克信、さらには吉田照美といった、名前はある程度売れているがお世辞でも「一線級」とはいえない人たちのほうが、1週間毎日番組に出ている「おニャン子クラブ」よりもまだまだ“立派”な出演者の顔をさせてもらっていたようでもあった。 6月になって、何かが少し、少しずつ変わり始めていたとはいっても、まだまだそんな最初の2カ月の延長のような頃のことだったから、私としては余計に、「おニャン子クラブ」という冠もかぶせずに、いやおそらく「夕やけニャンニャン」という冠すらかぶせずに、ただこの高井・永田のふたりを見られれば十分だった。……もちろん当時は「ふたりだけを見よう」なんて気張った考えでいたわけですらなく、もっと素直に見ていたのだろうが。 ……なにせ、私も若かったし、(立場は違うかもしれないが)私と同じようにその頃この番組を見始めて、日々楽しみに見ていた人たちも、ほとんど例外なしに、ただひたすら若かったのだから、ね。 そんな6月の初め、番組のオープニングのテーマ曲がチェッカーズの「あの娘とスキャンダル」(たぬきのアニメ)から「セーラー服を脱がさないで」(ティラノザウルス・レックスのアニメ)に変わった。 レコーディング並びにジャケット写真撮影をしているという発表がなされていた「セーラー服を脱がさないで」。Tレックスのアニメに先駆けて、スタジオで生で(ただし、口パクで)歌われたのが6月3日。永田ルリ子が合格してからたったの2週間で、文字どおり彼女はデビュー曲に滑り込みセーフといった感じだった。……でも、ハッキリ言って、「セーラー服を脱がさないで」については「やめてよ」なんて思ってしまったという忘れられない記憶がある。 ……まだ、始まって2カ月。なのに、「とうとう来たか」というような実感は、覚えた。その記憶も、とても根強く残っている。「もうレコード出すのか」って感じで。オールナイトフジで慣れていたから、売れようが売れまいが強引にレコードを出してしまうという決まった流れには何も驚きは感じなかったけれど、それにしても、最早その頃オールナイトフジ以上に(どころか、明らかにはるかに超えて)ハマリ込んでいた夕ニャンという番組で、中でもとりわけ(あるいは、この頃では“唯一”)ハマリ込んでいたあのふたりが実際にレコードを出す、しかも、こうして目の前で“他のみんな”と一緒に歌っているんだ……というのは、これはちょっとドキドキした。どうせ売れないなとは思っていたけれど、そんなことは関係なくて、ひたすら、ドキドキ、ドキドキ。ただ、それと同時に、とっても複雑な気持ちもあった。このふたりには、レコードなんか出してほしくないなという。もうすでにこの頃、永田ルリ子とは出会ってほんの半月しか経っていなかったのに、レコードなんか出してなんだか遠くに行ってしまうように感じるのが、とても不安で、怖かった。もっとずっと、近くにいてほしいな、みたいな。……だから、複雑だったんだ。ドキドキの一方で、決して強烈な抵抗感ではないけれども「やめてよ」なんてつい思ってしまったのには、要するに、こういう心理が働いていた。 それはともかく、オープニングのテーマが変わってしまったのは、ちょっぴり残念だった。プッ、プッ、プッ、ポーンの時報、そしてたぬきのアニメで「あの娘とスキャンダル」を聴いて、「ああ、今日も夕方5時だ」と胸が躍っていたものだったから。 おそらく今でも、何より「あの娘とスキャンダル」を聴いたときに、「ああ、夕ニャンが始まるんだ」という実感が最も湧いてくるだろう。涙が出るくらいに懐かしい。(そう書きながら、私はそっと、ターン・テーブルに当時のEP盤の「あの娘とスキャンダル」を乗せて、静かに針を落としている。もっとも、夕ニャンのオープニング・バージョンでは、イントロのギターのフレーズ無しにいきなり「♪あの娘と」から入っていたけど) 初めて「セーラー服を脱がさないで」を聴いたときは、上に書いた「ドキドキ」の実感と、「やめてよ」という一種の不安に起因する抵抗感めいたものを除けば、曲自体としては「うーん、なんだ、これ」といった感じで、ちょっと無言になってしまった。他の人も結構そうだったと、後に聞くとまず例外なく言う。だから、一番最初の頃は、不安とかそういうもの以外に、この歌を聴くのがちょっぴり、いや結構恥ずかしかった。そして、これもきっと、みんなそうだったんだろう。 それだけじゃない。この曲の振り付けが、結構きた。「セーラー服」を番組で初めて「おニャン子クラブ」が実際に3スタで振りを付けて歌ったこの6月3日(いわゆる初公開。まだ私服だった)、まず最初に奥(すなわち後列。ちなみにメインボーカルを務める前列は言わずと知れた、向かって右からナカジ、内海、福永、新田の4人)の一番右端に位置する永田ルリ子に視線が行った私は、正直言ってかなりア然とした記憶がある。まだ、他のおニャン子みんなも、当然の如くその振り付けになじんでなどいなかったから、変なふうに見えてまた当然なのだけれど、なかでも彼女の振りがイチバン変(?!)に見えてしまったのだから。 歌いだしの「セ・エ・ラ・ふくを」のところで、両手の大きな上下の動きにつれて、肩を筆頭に体も上下にブレるというか、目も口も開き方がちょっといつもと違った“深刻な酸欠”風で、しかも笑いを絶やさないよう努力している顔が少しアップアップして、それで顔の下がわさわさわさわさとなるのが、見ていてとっても恥ずかしかった。(10年経っても、あのときの燃えるような恥ずかしさは、ハッキリと背筋に残っている。「恥」の記憶は根強いから、強烈で、忘れられないね、いつまでも) 高井は、のぼせたような頬を別にすれば一見物腰もやわらかで、それなりに落ち着いているように見えた(はず。さすがに、あの「恥」に比べれば、それほど強烈に残っているわけではないから)けれど、あれって絶対に落ち着いていたんじゃないよね。なんていうか、きっと自分でも何をやっているのかよくわからなくて、ただボォーッとしてたんだろう。夢中と言えば言えたのだろうけれど、いくら夢中になっても、緊張していても、この子はだいたいあっけらかんと、落ち着いているように見えた。だから、あんまり深刻には見えなかった。それは良いことだった……永田ルリ子がいかにも“深刻”で、それを見ている側も極めて深刻だったのに比べて。 上の「ドキドキ」や「やめてよ」とともに、こんな曲、絶対に売れるわけないよね、とも、正直に思った。ただでさえ売れるわけないって思ってたんだから、なおさらだ。 もちろん、揃いの服を着ることもあったけれど、まだ「制服」が正式に導入される前の、私服の時代だ。歌うのが私服なら、MC(アシスタントといったらいいのか。司会の片岡鶴太郎、松本小雪の隣におニャン子が日替わりで二人並んで座り、いろいろと番組進行のお手伝いをする役である。テクニカル・タームで「日直おニャン子」と呼ばれる。鶴太郎がその日の「日直」を紹介するときに「こんなふたりでかたじけない」などと言っていたのが懐かしい)も当然私服。その私服姿の高井・永田のふたりという、いかにも私を喜ばせそうな組み合わせの「日直」やインフォメも結構あって、胸ときめいたりした。(インフォメとは、言わずと知れた「告知」のこと。「『アイドルを探せ!』の出場者を募集します」といった番組のコーナーへの参加者募集など、種々の“催し”の要諦が書かれたボードを持って説明する。ボードの裏は言うまでもなくカンペになっていて、要は“棒読み”なんだけれども、おニャン子たちが読み上げる内容、つまり裏に書いてあることとテレビに映っている表の説明とがよく違っていたりして、まさに“いい加減な番組”の本領発揮といったところか) (つづく) |