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| もう一つ、高井麻巳子の“宙ぶらりん”な点を挙げれば、からかわれるにせよ無邪気にいじめられるにせよ(それはもちろん他のおニャン子だって鶴太郎などにからかわれていたとはいえ、高井と違ってそのいじめられ方の“パターン”が固定されていた一方で)、高井のからかい方にはなんだかとても漠然としていて、その意味ではつかみにくいところがあったということだ。 わかりやすく言えば、国生や富川が、やはり鶴太郎によくからかわれる対象ではあったが、そのからかわれ方は先ほど挙げた「くになま」「お富さん」という言葉に象徴される次元で止まっていた、ということだ。 高井の場合は、そうではなくて、その意味ではずいぶん鶴太郎たちの側もやりにくかったんじゃないかと思う。一般的に考えられているのと異なるかもしれないが、高井麻巳子というひとは、実は一つの固定的なイメージを与えにくい、よくわからない女の子だったと私は思っている。高井麻巳子には「くになま」とか「お富さん」というような、名前とは別の包括的な代名詞がなかった。これは、番組開始当初の当時になかったというだけでなく、その後もずっと、なかったのだ。その一方で、「高井麻巳子」はあくまで「高井麻巳子」であり、しかもそれがとりわけ深い、一風変わった大きな魅力を湛えたものであったから、それゆえにまずはただ名前(苗字)で呼ぶしかなくて、「高井麻巳子」というその内なるイメージや、それを元とした“からかい”を表現するのが、実はとても難しかったんじゃないか。 ……つまり高井麻巳子というひとは本来、一つの固定したカラーがなかった、ということだ。だからとってもとらえにくかったはずなのだ。にもかかわらず、きっとその難しさも逆に作用して、しかも「高井麻巳子」というのが本当に不思議なほど魅力的な存在だったから、ほうっておくわけにもいかず、見ている側としても何か一つとらえやすい「カタチ」が欲しくて、そこら辺の心理がうまく結び付き、高井麻巳子には『高井麻巳子』という固定的なカラーがあるという(この後問題となる)「幻想」を極めて与えやすいひとだった、と。 難しいがゆえに、当時のようにまだ番組草創期で、あらゆる意味で無茶苦茶なパワーがあり、しかも高井が“年下”でいられた時代だったら、その一種の“壁”をぶち破るのが楽しく、むしろぶち破る側にとって快感でもあって、その反作用で高井はどんどん、鶴太郎やスタッフからだけでなくおニャン子からさえも“無邪気に”からかわれたのだろう。けれど、それからしばらく後以降、「おニャン子クラブ」というもののステータスがアップして、触れるにも簡単には触れられなくなってしまった頃からは、その“表現の難しさ”が災いを始めた。一方ではその「幻の固定カラー」が進んで一人歩きを始めた結果『高井麻巳子』ブランドというイメージまでが形作られ、それが力を持ってきたせいもあって、努力をしてあえてぶち破ろうとする人間が誰もいなくなり、その部分から結果的に、高井麻巳子というひとの本来の“性”が幻の「神聖の枠」に閉じ込められて、発掘されないままに保存されてしまうようなことになったのではないだろうか。(「おニャン子クラブにいて彼女は楽しかったのだろうか」という、2年近く後に「世論」として忽然と提起されるこの大問題も、実はこの辺りに大きくかかわっていたのではないか) この点はともかく、カレンダーを見てもわかるように、ずっとずっと後の話であるから、ここまで。 そういうふうに見られていたせいばかりでもないだろうが、高井麻巳子が背伸びをしようとすると、その過程で必ずぽろりと落ちるものがあった。 ぼろが出る、と言えば言い過ぎだろうが、その“落としたもの”を見て、他の人にしてみれば、微笑ましくもなり、無邪気にいじめてみたくもなり、「まみこは免疫がないから」と言ってみたくもなるのだ。 そうしていじめたり、からかったり、何か言ってみたりしても、あまり響くところがない。もちろん人間だから、本当に気にするところは気にしたろうし、実は高井は“意外”といろんなことを真剣にとらえすぎるところがあったから、本当のところはいろいろと考えてもいたんだろうけれど、注意深く見ていなければ、少なくとも外見にはあんまり映らなかった。 しかも、悩んだ末に一応の結論を出しておくことだけはうまかった。おまけに甘えられるという環境もあったから、傍から見ると、その気にし方もまた微笑ましくて、だから周りもついつい安心して「まみこ」をからかう。「麻巳子」や「まみちゃん」だったら、少しはからかう方も身を引いたのだろうが、彼女は最初の頃、年齢が下の「高校生」新田やナカジから見てさえ、「たかいーっ!」であり「まみこ」でありうるような存在だった。 「イヤなこともいっぱいあったけど…私のまわりがどんどん変って、なんか今は本当に1年という重みを感じてしまいます。時々ついていけなかったり、人にめーわくかけたり、イヤな自分を知るのがつらくてどうしようもない時もあったけど…バンザイ」(DUNK 86年5月号)洒脱ではないが、軽妙なところがあった。 こういう流れの述懐の最後に、逆接的でしかもすべてを吹っ飛ばしてしまうような爆発的な言葉「バンザイ」で締め括るなんてことが、ごくごくしぜんにできたのも、たぶん高井麻巳子だけだったんじゃないかな。 期待をも込めて要約すると、その最初の頃の高井麻巳子というのは、つまり私が“そもそもの”とずるい言い方をするところの高井麻巳子は、他のおニャン子や出演者、スタッフ、そして見ている側からさえも、ひたすら好意的にバカにされ、その“バカにされる”ことによって誰にでも可愛がられる素質を持った女の子だったのだろう。 言ってみれば、高井麻巳子は後に比較的そのようにとらえられていたように、“神棚の上”にあげられていたような子ではなかった。もっともっと、同じ地平のひとだった。だからこそ、たしかに、高井麻巳子のことを本当に本当に嫌いだったおニャン子、出演者、スタッフ、それにおニャン子ファンなんて、一人もいなかったろう。みんな必ず、ある程度は高井のことが好きだった。これはおそらく、後のおニャン子でいっても渡辺満里奈くらいにしか当てはまらない貴重な部分であって、ああいう特殊な集団の中で、極めて得難い、素晴らしいものだったのだけれど。 ……だけれど、このことは私の中で、後のことと関連して、ある重大な前提となってくる。 表現を換えれば、一種の重荷になってくる、ということだ。 「同時代の高井麻巳子」の始まり 1985年も6月になる。 とってもとっても、いい季節だった。 高井麻巳子・永田ルリ子のふたりの出現によって、すでに「オールナイトフジの夕方版を見る」という意識でなく「夕やけニャンニャンを見る」というまさにその意識で習慣的に番組を見始めていた私がその頃、まだ学校にいるうちから帰るのが待ち遠しくて、自転車で急いで家に帰って正座でもするようにして番組を見るその目的、動機、平たく言えば最大の楽しみとしていたのは、諸々の事情からみて永田ルリ子と高井麻巳子に“会う”ことだった、あるいはこのふたりと“会う”こと“だけだった”と今断言してしまって差し支えないと思う。(「差し支えない」という言葉をあえて使ったのには理由みたいなものがあって、それは後に書く) こういう“断言”をもって今書けるように意思表示していたのは、おそらく私だけじゃないだろう。1985年の6月頃というのはまだ、少なくとも東京の、「オールナイトフジ派」の私の周りのみんなの間でも、好きとか嫌いがハッキリしていて当然の時代だった。……まあ私に関して言えば、積極的に嫌いな子なんてその頃もいなかったけれど、本当に。 「イチオシ」なんて言葉も、あったにはあったがまだそれほど浸透していなかったと思う(いきなり余談だが、「イチオシ」という言葉は、おそらくオールナイトフジが作って、おニャン子クラブが定着させたのだと私は考えている。それ以前のアイドルの世界では、基本的に「イチオシ」なんて概念は必要なかったのではないか。ところが、オールナイターズから始まりおニャン子クラブへとつながる一連の路線は、暫定的なまとまりのようなものはあるものの根本的に各個人がばらばらで一単位だったそれまでのアイドルたちと違って、明らかにそれ自体が一つの大きな単位となる「グループ制」の中に誕生したものだったから、まず前提としてオールナイターズなりおニャン子クラブなりという集団自体を土台とする論理構造がファンの間にある程度植えつけられた上で、さらにその中で自分はこのひとが一番いいというときの「イチオシ」という概念が必要とされたのではないか。ただし、もちろんオールナイターズに対する論理構造と、おニャン子クラブに対するそれとでは、かなり質が違うが)。ともかく6月のその頃の、周りのみんながオシていたひとを挙げると、内海和子と富川春美が目立っていた。最初のうちは吉野佳代子がイチオシで、文春事件以後にはやむなく“転身”したが後々まで「やっぱり吉野がいいよ」と言い続けていたような人間もいた(もちろん、これにはかなりの“ポーズ”が含まれていたとは思うが)。またこの頃から、後の“エース”新田恵利のファンが加速度的に増え始めた。 前にも書いたように、「おニャン子クラブ」という全体の、集団としての概念なんて、まだあんまりなかった(まだあんまりなかったからこそ、「イチオシ」なんて概念もまだまだ発展途上だったのだ)。あったとしてもせいぜい番組のアシスタントグループといった補助的な枠を出ないもので、これはおそらく、そのまま発展しても後のブームには直接結びつかないタイプのものだったろう。だから「おニャン子クラブはみんな好き」なんていう時代は先のことで、当然のように「おニャン子クラブファン」なんてほとんどいなかったと思うし(いたとしたら、そのまま「おニャン子クラブファン」としては後々までは残らなかったタイプのB級的アイドルファンだけだったろう。そういうタイプのファンはいつの時代にもある程度はいるもので、この際、私たちにはあまり関係がない)、記憶が確かなら、5月くらいはまだそんなに「おニャン子」という言葉自体が浸透していなかったと思う。 もちろん、「おニャン子」という言葉はあったし、番組でも当然使われてはいたけれど、その頃の「おニャン子」なんて、「おニャン子クラブ」という集団に属するメンバーを表す言葉としては、夕ニャンを見ている私たちの側からしてもずっとずっと固有名詞的で、まだまだ“付属要素”みたいなものだったと思う。つまり「おニャン子」よりも「河合その子」「中島美春」「名越美香」であったということ、「おニャン子」という言葉はそれほど一般名詞的(包括的)に作用してはいなかったということ、もしくはまるっきり正反対に、「おニャン子」が一般名詞以上に超一般名詞的なもの(つまり、まだよく知らなくて、一集団を漠然と示す名詞ではあったが、一集団を統括する名詞としてはとりわけ何も訴えない言葉)だったということ、要するに、もっぱら「オールナイトフジ」的であった、というわけだ。「おニャン子」「おニャン子クラブ」という言葉が一般名詞的(すなわち包括的、統括的意味合いを持つということ)になって、そこに所属する女の子たちがまず何より「おニャン子」であるととらえられるようになる時代は、繰り返し書いているように、もっともっと先のほうだ。 (つづく) |