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 ということはつまり、極めて平凡で安易な比喩にすれば、後に一生の「靴」となる「夕やけニャンニャン」、「ズボン」となる「おニャン子クラブ」を、その時点の私はまだ身に着けていなかった。というより、見つけていなかった。というより、まだ出来上がっていなかった、まだ“存在していなかった”のだ。そういう意味で、この2枚の衣裳(上衣)は、最も古い頃から常に私のそばに“ある”ものだ。“歴史としては”という語り方をするなら、「高井麻巳子」「永田ルリ子」のほうが、あとの二つの柱……「夕やけニャンニャン」「おニャン子クラブ」よりも順序として前になる、ということだ。一つのパターンの上で、これは当然のことだが。
 難しいことを書いているようだが、その実、決してそんなことはないと思う。とんでもなく、簡単なことだと。
 要するに、私はこの一連のムーヴメントの中で、まず最初に「夕やけニャンニャン」という番組を好きになったのでもなければ「おニャン子クラブ」という団体(グループ)を好きになったのでもない。本当に最初に好きになったのは、何をかくそう高井麻巳子と永田ルリ子という「ふたりの女の子」だったということだ。ねじれのない熱情のまなざしで見ていた、見られたのが、私にとってこのふたりだったということだ。番組はすぐあとに、グループのほうはもう少し遅れて、あとから追いかけてきたというにすぎない。そうしてそういう過程の一部として、つまり、いつもこのふたりを見ていると、そばにいる他のひとたちにも当然なじみが生まれてきて、それで新田も国生もその子も、だんだんよくなってきたと、そういうことだ。
 このムーヴメントに飛び込んできた、あるいは“巻き込まれた”人間には、その契機としていろんなパターンがあるに違いない。それはそれとして、また単に飛び込んだ、あるいは巻き込まれたというだけでなく、文字通り“はまった”きっかけも、人それぞれなのだろう。そして大切なのは、その「第二の契機」のほうなのだ。飛び込んだというのは、本当に準備段階以前のことに過ぎないのだから。番組のほうを最初に好きになったという人間だってきっといるだろうし、とんねるずのファンだったという人もいるだろう。その“本格的”な「第二の契機」が私の場合、高井麻巳子と永田ルリ子のふたりだったということだ。まず人を好きになるという、しぜんの経過を私は辿ったまでだ。それが当然のこととして、後の後まで尾を引くことになる。
 また当然の成り行きとして、ふたりの出ている番組と、いつもふたりの周りにいるひとたちのことが気になり出し、好きにもなって、そしてやがて彼女たちの属しているグループのことを好きになり、またまた当然のこととして、それらを彼女たち本人とは分かち難くなる。“別物”とは考えられなくなる……。整理すればそういうことだ。「三位一体」とでもいうような一種宗教的な考え方も、源はこういう単純なところにあることは変わりない。進み進んだ果ての、ある意味での究極の姿というだけだ。

 本筋。……そんなわけで、高井麻巳子が登場したことは、私の中に特筆すべき、歴史的とさえいえる大転機をもたらしたのだった。
 生活にかかわる部分での最大の変化は、もともと学校は好きではなかった私が、前にも増して高校から帰るのが楽しくなったということだろうか。
 その頃高校へは自転車で通学していた。だいたい30分くらいの距離だったが、夕方5時に“新番組”が始まってからというもの、おおかた学校が終わればすぐに帰宅するようになったし、遅くなるときにも4時半頃には家に着くようにしていた。またやむをえないとき、たとえば高校の行事等でもっと帰りが遅くなるような場合には、タイマーでビデオをセットしていったか、家族に録画を頼んだのだった。
 我が家にビデオが導入されたのはその2年程前、NECのBetaデッキだったが、私はそれほど有効利用していなかった。たまたま何かの番組を録画して、録ったきりであまり見ることもせずにほうっておくという感じだったのだが、85年のその頃初めて「家にいないときに録画をして、あとで見る」式の、ビデオ利用の一方での本道を知ったのだった。
 もう一方の本道、つまり「保存」ということに頭が至ったのは、その年も7月に入ってからのことである。
 最初の頃はまだ、いわば“見逃さない”ための予防線としての利用に頭がいっぱいで、「保存」までは考えが及ばなかったのであろう。今思えば大変惜しいことだが、当時はテープを使い回し、つまり何度も重ね録りをしたり、特にテーマなど決めていない「録画用」とだけ呼べるテープにただ無造作に録って、ひたすら「見る」ことだけが重要だった。だから、一番古いその頃の貴重な映像が、最初の3カ月分だけ空白となって、「夕やけニャンニャン」開始当初の、いわゆる“制服”としてのSAILORSなどが正式に導入される以前の「私服時代」(4月〜概ね6月頃まで)は、私が実際に録画したものとしては後の時代に伝えられていないのである。
 まあ、それはたしかに後に思えば大いなる失策といえるかもしれないが、そういう「記録性」を犠牲にして、少なくとも私の目が、まだ一連のムーヴメントが流れ始める前のいわば“まだ慣れない時期”に、「見る」ことに集中し、それを日々無意識に、しぜんに習慣化していったことは、私にとってかけがえのない、とてつもなく貴重な道程であったと思う。
 それに、言わせてもらえばあの時期、まだ「セーラー服を脱がさないで」が発売されるもっと以前のあの時期に、同じように“没入”を始めていた人たちのいったい誰が、後の狂乱的なムーヴメントの盛り上がりを想像していたであろうか。想像どころか期待すらしていない、あるいはできなかったのではないか。夢中という言葉が、先の流れを読む冷静な客観の姿勢すら奪っていたのではないかともいえる。そもそも、“親番組”オールナイトフジ自体が、社会現象とは言われたものの、結局は「内輪の盛り上がり」にとどまって、後の夕ニャンと比べればまだ全然「怪物番組」ではなかったし、前に書いたように草創期の夕やけニャンニャンを支えた人材(作る側も、見る側も)の多くが「オールナイトフジ派」であった現実からも、番組の未来をそういう進歩的な目で見ないことに慣れていたのではなかったか。もっと刹那的な、“一期一会”的な番組の見方だったのではないか。
 ……ただ一事、それを思うときに、「保存」という点で全くプレシャスな犠牲を払ったとはいえ、ひたすら夢中にに向き合って、生活の一部に明確に取り込んでいったことが、まず何より大事であった。



 話はまだ1985年の4月から5月、「夕やけニャンニャン」という番組がスタートしてわずか数十日程度の頃のことである。
 そうして、私の中の「オールナイトフジ派」から「夕やけニャンニャン派」への“歴史的大転換”という一大事業が高井麻巳子の登場と共にスタートし、翌5月、永田ルリ子の登場によって“落成”、つまりは本格的で最終的な“転身”が完成したのだった。
 “転身”と書いたが、私にとってその意味はあまりに大きいとはいえ、それはまだやはり“転身”と呼ぶ程度のものに過ぎなかった。中心としての“視点”がオールナイトフジから夕やけニャンニャンに移行したということで、先程も書いたように夕ニャンという番組自体が好きになるのはまだ少し先のことなのだから。
 ともかく、私にとっての高井麻巳子の存在があまりにも大きいのは、一つにはやはり、この辺の事情が大いに関係してくることだろう。
 そのことに対して、(往々にしてありがちな反応だが)それが、「私」がある形で投影されたまったく意味的な「存在」であってそもそも「虚構」であるとか、「存在以前の現実存在」との乖離を無視した議論である云々などと非難されるなら、ひとまずは甘んじて拝聴するしかない。……しかしながら、正直に言えば、すべてを「同時代者」「当事者」として体験し(これすらもたしかに「意味的」なのだが)、今でも、そしてこれからもその立場であり続けようとしている私にとって、心の問題として、同じ「同時代者」「当事者」である彼女たちを、そういったテクニカル・タームで弄ぶような世界の地平で受け入れようとしたことは、一度もなかったのだと言える。だからこれらのことについて私が「議論」を強制されるとしたなら、最早私は潔く匙を投げるしかないということをも、やはりあらかじめ書いておく。
 同じように、「記号」として、「現象」として考えるのも、私の仕事ではない。そういう面からのアプローチは、やはり他の人間に任せよう。それが悪いなどと言っているのではない。それも必要だろうし、やる人間がいて当然なのだ。ただ、私にはできない、と、そう言っているだけなのだから。
 私はもっと“バカ”だったし、今でもバカのままだ。
 “ある流れ”が始まってから、「意味」も「実存」もなく、あるいはそれらに宙ぶらりんの状態で、わざわざ“受け入れる”とかそういった考えをなすまでもなく、かぎかっこで括られる「同時代」の中に「当事者」として、彼女たちはそこにいて、私はそこにいるのだし、さらに言うまでもなく、私は夢中で、一生懸命で、彼女たちも日々夢中に、一生懸命に生きていて、今でもお互い、やはり夢中で、一生懸命であるのだから。
 そんな私たちの姿を「意味」で括ることをしたいのなら、どうぞやって下さい。私はその時単なる客体となって、「当事者」としてできる限りの反論はするかもしれないが、文句など一切言いはしないということを、ここに保証しておく。ただし、それが「現実」を語るかどうかはわからないよという“警告”は、とりあえず付けておくとして。

 このたったふたりの、ごく普通のひとの登場によって、結果的にいとも簡単になされてしまったようにも見える“地殻大変動”、歴史的な大シフトが、それ自体が必然であったかそれとも単なる偶然なのか、そのどちらかに限定することも私にはできない。私が85年4月1日の最初の日から夕ニャンを見ていたというこの事実は、偶然などではまったくなく、ここまで書いたように「オールナイトフジ派」であったことから明らかに必然の流れの上にあったとは言えようが、それと、果たしてこのふたりの登場を、同一の次元で考えられるだろうか。
 これをあくまで必然と考える立場に立てば、それはすなわち「運命」ということにつながるのであって、そう言われれば、そうだ、ふたりが登場すること自体がふたりにとって、そして私にとって共に「運命」として道付けられていたかどうかはともかく、たしかにそれは“運命的”ではあった、しかもその後の人生を大きく左右するほどにあまりにも“運命的”ではあったと答えるしかない。また、偶然だとするならば、やはりたしかにあの時期、あの場所に、高井麻巳子、永田ルリ子というそのふたりのひとがあのような形で現れたのはまったくの偶然であって、ともすれば「16番」「18番」というふたつの番号に別の人間が位置していた可能性もあったわけであり、もしくはたとえこのふたりが結果的におニャン子クラブに入っていたとしても、たとえばもっともっと後の時代にく違う会員ナンバーとして登場していた可能性だって大いにあったわけだ。
 だからこそ、結果的に私には、それが必然であったか偶然であったかという議論に対する興味がない。ただ、繰り返すようだが現時点でもそれを、必然、偶然の混じり合った「運命的」なものであったとは考えざるをえないのであり、今後の課題として、一歩また別の次元の「運命」という事柄について、当然の如く考えざるをえないときが来るだろう。……そしてとりあえず、そんなことまで含めて、私は「存在には隙間が必要だ」と言ったまでだ。ここ数ページのたわごとは、そういう文脈からとらえてほしい。
 私のような、そして彼女たち本人のような立場からすれば、つまりは「同時代者」「当事者」が、その立場で思いっ切り時代を生きて、その結果たまたま「現象」というものが生まれた、ということにすぎないのだろう。当たり前のことだが、私たちは「現象」を作ろうと思っていたのでもなければ、「現象」が先にあってそれで好きになったのでもない。まず最初に、彼女たちがいて、私たちがいて、そうして私たちが好きになって、お互い一生懸命のそうした関係が続いた結果、マスコミの言う「現象」というものになった、と、それだけなんだろう。
 私たちが、あるいは彼女たちが「現象」を作り出したのではなく、私たちがいたこと、彼女たちがいたことが「現象」を生み出したのであり、さらに言うなら私たち、彼女たちというそれ自体が「現象」だったのだ。
 「おニャン子クラブ」が社会現象だったとしたら、それはおニャン子クラブという彼女たちのことだけでなく、また一つの「当事者」であった私たちの存在も、同時にやはり社会現象だったのだ。……そして、そういうこと自体にどれほどの意味があり、どれほどの価値があるかといえば……私にはわからない。私たちも、彼女たちも、あの時代、たしかに同じ時に、同じ場所に、一緒にいたのだ。それが「現象」であるならそれで構わないし、そうでないならそれで構わない。とにかく、私たちはそのことを知っているし、彼女たちもそのことを知っている。私が一番大切にしたいのは、他でもない、そのことだけだ。
 何度も繰り返すが、私も、彼女たちも、あくまで「同時代者」「当事者」なのである。この事実の前に、結局は、あらゆる言葉が、あらゆる「現象」が、空虚になる。私にとっては、私たちにとっては、彼女たちにとっては、「同時代者」「当事者」にとっては……。それだけ。そういうこと。

(つづく)




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