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| 1966年12月28日に生まれた高井麻巳子は、85年の4月、私と初めて会ったときに「18」歳だった。私は高校2年生、まだ「16」歳。その瞬間の年齢差は2つ。……不思議な数の組み合わせではある。 一番前にも書いたように、私はそれまでも「オールナイトフジ」フリークだった。その2年前に始まった土曜深夜のその番組を、私はどういうわけかほとんど最初の頃から見ていた。 もともと小学校の頃から夜起きてばっかりいて、おませなことに「オールナイトニッポン」を結構朝まで聴いていた。中学1年の頃にはもう、周りに完全な「オールナイトニッポン」フリークがいたりして、そんな悪い環境のせいもあったか、中学では朝5時に寝て、8時頃に起きて、学校へ行って、帰ってきたら夕方テレビを見て(「アップルシティー500」とか「アルプスの少女ハイジ」の再放送とか)、夕食を食べて昼寝(夜寝?)、そうして起きてまたラジオと、そんな生活(「くり万太郎の大入りダイヤルまだ宵の口」派だった。吉田照美は「アメリカンヒーロー」ぐらいしか聴かなかった)。バンドはやっていたけれど、他にはこれといってやることなし。筒井康隆の小説を読んで、小説を書いて、とそのくらい。だから、その頃からテレビ、ラジオばっかりだった。「アップルシティー500」は新宿NSビルへ見に行ったりした。ラジオは、ずっとニッポン放送(LF)派が続いていたが、お隣の文化放送(QR)で「ミスDJ」が始まると、今度はそちらのほうにも興味を持った。地味だけれど木曜日の明治大学の篠山久美が好きで、それと一般的に人気のあった金曜日の千倉真理なんかを楽しみにしていた(千倉真理は成蹊大学だったかな? 聴いてはいたけど千倉真理はあんまり好きじゃなかった。やっぱりミスDJでは篠山久美さんがよかった)。いま思えば、あの頃の「女子大生」傾向が、すでにして“運のつき”だったのかもしれない。 そんな中学3年、「オールナイトフジ」が始まった。なんの意識もありゃしない。夜中起きているのも当然だったし、起きていれば見るのも当然だった。巡り合わせもいいというか、「ミスDJ」のテレビ版という意識はあっただろう。だから「オールナイトフジ」は、まったくなんの抵抗もなくすんなりと入ってきた。 恐ろしいもので、その後今に至るまでの、そしてこれからおそらくは一生ずっと続く「運命」が、中学3年のある土曜日の深夜以来、明確に始まっていたなんて。 勉強もせずに一発受験(つまり、すべり止めも何も無し)で文字通り平凡な都立高校に入ると、菊池桃子がデビューする。彼女とは、中学校こそ違うが、学年も同じなら地域も同じ。いわゆる都立の「学区」というものが一緒だった。「(中学で)オレは菊池桃子の後ろの席だったんだぜ」なんてヤツが同じ高校にはぞろぞろいて、卒業アルバムなんぞ持ってきて自慢する始末。それをみんなで覗き込んで、はやしたてたり。 そんなこんなで「オールナイトフジ」も、番組、そして学校での人気共々ひじょうに盛り上がって、それと同時にとんねるずの人気も盛り上がった。言ってみれば時代の先取りのようなものだったのだろうか。 学校での話題も「オールナイトフジ」がごく普通のこととしてすんなりと広がった。立見里歌(後のおニャン子クラブ会員ナンバー15番・たつみりか。しかしオールナイトフジでは「たちみ」と呼ばれていたし、われわれの頭の中にも象徴的に「たちみ」としかなかった。そのイメージがあまりに強烈だったから、後に夕ニャンに出てきて「たつみ」と名乗ると司会の片岡鶴太郎も驚いていたわけだが、私たちも改めて仲間一同驚いたものだ)だって、いってみれば当然のこと「夕ニャン以前」からの古いなじみだったわけだし、むしろ夕ニャン初期はあくまでもオールナイトフジの人間という印象のほうが強烈だった。その点、プロデューサー石田弘もディレクター港浩一も私たちにとってはそういう存在だった。すべてが当然の如くにリアルタイムだった。 そうして1985年に入り、「オールナイトフジ女子高生スペシャル」が放映されれば、「あの福永(恵規)ってヤツはオレの友達の兄貴の同級生だったんだぜ」などと始まる。そいつに連れられて、学校のすぐ近くの大田区は畑が広がる馬込へ行って、ここが福永ってヤツの家だ、へえ、などなど……要するに、当時はあらゆることがまったく身近で、自分のすぐそばの、すぐ隣の出来事。「オールナイトフジ」の世界はごくしぜんに、当然のこととして、生活の一部にすでに組み込まれていたのだった。 それゆえに、オールナイトフジの番組中にフリップ(パターン)を持ったオールナイターズが「4月から始まる新番組に出演してくれる女の子を募集しています」などと告知しつつ、85年3月いっぱいでとりあえず黄金時代の「オールナイトフジ」が終了したあとの一種空白のような状態で、カレンダーがめくれた4月1日から私や私の周りの友達が、ウィークデー夕方5時の新番組「夕やけニャンニャン」を初めの始めから見ていたことなど、なにひとつ不思議に思う必要がない。特殊な事情はなにもなく、当然の成り行きだったといえる。むしろ黄金時代「オールナイトフジ」の終了にショックとさびしさを覚えていた私や周りの仲間たちが(友人の家に集まって、おかわりシスターズのラスト・シングル「虹色のカノン」をすり切れるほど繰り返し聴きながら、マジで涙を流したりして、そんな状態の“心の空白”をみんなで慰め合っていたものだった)、「オールナイトフジ」のなんらかの痕跡を求めて4月1日からの“新番組”に期待をかけることをしなかったとしたら、人間の心理としてそれこそ不しぜんだし、そのほうがまったくもって奇妙だったといえるだろう。 そうして4月1日夕方、くす玉が割れた。 制作者側の意向というだけでなく、見ていた側の私たちにとっても「オールナイトフジ」を放送していた東京の人間であったこと、そしてそれを“はまって”見ていたという事情は大きいのだろうが、その新番組は意味的にまさに「オールナイトフジ夕方版」そのものだった。 事実、番組の内容自体が「オールナイトフジ」そのものだった。片岡鶴太郎をはじめ出演者の心持ちも、あくまで“メイン”である「オールナイトフジ」に対して“サブ”としての「夕方版」であったし、そのとらえ方は、周りの多くの仲間の間ではそれ以降もずっとそのままだった。すぐ後に熱烈なる「夕ニャンフリーク」へと移行していった(いや、明確に方向転換をした)私でさえ、しばらくはそう思っていたほどだ。 なぜ“サブ”かといえば、同じ4月第1週の土曜日から、深夜に再び「女子大生にさせといて」の親しいメロディと共に、「新オールナイトフジ」が始まったからだった。 たしかに当時、「夕方」と「深夜」は共に黄金時代オールナイトフジの後継番組と言えた。ということはつまり、どちらの新番組も以前のオールナイトフジそのものではありえないとあれば、どちらかといえば本家本筋に近い“サタデーナイト”のオールナイトフジの方に重きが置かれるのは、スタッフとしても見る側としてもこれまた当然のことだった。だから、周りの人間たちの流れと同じで、私もむしろ当初は「本家後継ぎ」のほうに熱心だった。まったく、正常なことだ。これまた、そうでなかったとしたらそちらのほうが不しぜんだったろうと、今でも思う。(しかも夕ニャンは、「夕方版」であるうえに、さらに「高校生版」とも考えられていた。いずれにせよ夕ニャンは、まだ堂々たる「夕やけニャンニャン」ではなくて、「オールナイトフジ=新オールナイトフジ」を本家とした「○○版」つまり分家にすぎなかったということだ。ちなみに、おニャン子クラブの初期メンバーである国生さゆりも名越美香も福永恵規も「オールナイターズ」と変わらない年齢=大学1年相当=だったし、河合その子は大学2年相当、さらに後におニャン子クラブへ加わった立見里歌は東海大学2年の在学中で黄金時代末期オールナイターズのメンバー。4月第1週の「アイドルを探せ」で河合その子らと共におニャン子クラブへ合格した内海和子に至っては、おニャン子クラブの会員であると同時に新オールナイトフジの現役オールナイターズでもあったという話は有名だ。つまり、すでに高校生でないひとが多かっただけでなく、現役オールナイターズと同年齢どころか中には年上までがおニャン子クラブの最初期会員にはいたわけだ。その点、高井麻巳子も国生や名越、福永と同じ年齢の組だった) しかしながら、保守的な抵抗感は感じつつも、週に1度の新オールナイトフジに比べ、週に5度の「夕方版」に対して次第に身の入れ具合が移ってきたというのもまた、人間の心理のごくしぜんな方向だったろう。(黄金時代オールナイトフジというものが当時はまず何より大事であったという点から見れば、当時どちらがより「正統」と呼べたかといえば、あくまでも当時の視点であるが、圧倒的に新オールナイトフジの方であったろう。ゆえに「保守的な抵抗感」と後から規定できるような心理も生じるのである) 春の暖かい陽射しで、「氷」は徐々に解け始めていた。「時代」が変わり始めていたのだ。……そして、そんなある日、私の前に鮮烈にぼんやりと登場したのが、竹下通りを歩く、田舎の香りがする中にどこか妙な軽快さを感じもした、高井麻巳子そのひとだった。 オールナイトフジの長い経験から、“素人”を見る目、あるいは“見つけだす目”は、当時すでにオールナイトフジ時代を経なかった人間よりはるかに鍛えられていたことは確実だろうし、つまりはそういう方向への視力が肥えていたという事情もあるのだろう。……ともかく、そのときのショックというか、それこそ平板な比喩でいえば雷を受けたような衝撃、総毛だつような感覚といったらなかった。これは決して大げさな言い方ではないと思う。番組での登場のシチュエーションというか、雰囲気も、とってもよかったし。もちろん、当時「正統」などという概念は皆無であるわけで意識してはいなかったが、無意識ながら「本家後継ぎ」派の「正統」を重んじるべき立場からはどうしても抑えるべき感情が、どうにも抑えられなかった。 ……高井麻巳子。たしかに、なんでもないひとだ。ほんと、そう思う。けれど、こんなにシックリくるひとなんて、それまでの、黄金時代のオールナイトフジでさえ一人としていなかったし、当時は、つまり高井麻巳子が入る以前に夕ニャンにいたひと……新田恵利や河合その子といった“おニャン子”にさえも、まだそれほどまでの感情は生まれていなかった。 オールナイトフジの時代は、誰か「いいひと」を、こちらの側から見つけださねばいけなかった。目を凝らして、そうしなければ、これがいい、あれがいいなんて、言えなかった。そういう点からみれば、まだ始まったばかりの夕ニャンの中で、私はそれほどの思い入れを致すことのできるひとを見つけられていなかった。(だからこそ、当初“サブ”でもあり続けたのだろうが) ところが、高井麻巳子は違った。私が「見つけよう」とするまでもなく、登場の最初の最初から、私の目、私の心にマッチして、彼女のほうから「飛び込んで来た」のだった。タイミングでなくスピードなら、伊藤克信にさえ一歩も劣らず、とんでもなく速かった。要するに、“一目惚れ”だった。 「“最初の瞬間”からなんて、ウソだろう」と言われるかもしれない。私も、自分のことながら、信じられない。でもこれは、事実なのだ。 ここまでしつこく書いてきたように、夕ニャンは最初の最初から見ていたけれど、最初の最初から好きだったわけではないし、むしろ単にオールナイトフジの「夕方版」「高校生版」に過ぎなかったのだ。だから、夕ニャンという番組を意識して、最初の最初から好きだったといったら絶対にウソになる。けれど、繰り返して自分でも信じられないが、これだけは、本当に本当に事実なのだ。高井麻巳子と、そして永田ルリ子だけは、本当に、登場したその瞬間に、目がクギ付けになって、“一目惚れ”してしまって、大好きになってしまったというこのことだけは。世の中不思議なことはたしかにあって、それを人生の中でいくつか必ず体験すると思うのだが(そしてそれを「運命」と表現するのかもしれないが)、私の場合は、この二つが「運命」だろう。 それからである。……私の中のある傾きが、抑えようとする抵抗感に悶えながらも(これはもちろん、今振り返っての書き方である。当時にはしぜんと、実にすんなりと入ってきたのだろうが)、「オールナイトフジ」に打ち勝ち始めたのは。天秤のバランスは、反対の方向へと傾いていった。打ち勝つ、という勢いが、津波となって進攻を開始した。 それは、決して後継ぎたる「新オールナイトフジ」に対してのみ進攻して行ったのではない。そんなものは、容易にして凌駕し、矛先はすでに、かの「黄金時代オールナイトフジ」に向けられていたのだった。 そして翌月、「会員ナンバー18番・永田ルリ子」が誕生した。私の中のオールナイトフジ派、そのかつては絶大だった指向性が、完璧に壊滅された。 ひどく恐ろしい想像だが、もしかすると(天というのは一体何を考えているのか皆目見当がつかないから)高井麻巳子があの時期あのようにあの「夕方版」に登場しなかったら、現在の私は存在しなかったかもしれない。 これは、後から考えるからこそ吐ける類の大げさな疑問だろうか。それとも「運命」はあくまで「運命」として、詰まるところ調和への道を辿ったのだろうか。……それは最早、今となってはまったく計り知れない問題となってしまったけれど。 とにかく、私はまったくもって久しぶりに「オールナイトフジ派」という長年親しんだ分厚い衣を脱ぎ捨てて、本格的で運命的な「夕ニャンフリーク」への“転身”の道を辿り始めたのだった。そして、その私が新たに身に着けたのは、「永田ルリ子」と「高井麻巳子」という、実に真新しい衣裳だった。 ……その2枚の衣裳、完全に脱ぎ去ってしまうことは、その後一度たりともなかった。まずそんなこと、できなかったし、今やろうにもできないし、今後も、できないだろう、うん、できない。 さらに言えば、まだ「夕やけニャンニャン」「おニャン子クラブ」という明確な概念は、私の中に存在しなかったと言える。あったとすれば、文春事件にその姿が見られる、マスコミが括った枠だけだった。 私の中にというよりも、「見る側」の間で当時それはまだ「出来かけ」だったんじゃないか。そして肝心なのは、その“枠”が見る側の意識に内在することであって、そうでなければ“その後”にとって意味はなかったのだ。 余談:これは、何でもないことのようであって、実は結構重要なところなのではないかと思う。 (つづく) |