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| 〜こくはく〜 現在、1994年の、夏の終わり。 1987年9月20日夜、東京国立代々木競技場第一体育館。おニャン子クラブの「ファイナル」コンサートが行われて、もう7年が経った。 横浜は中華街、あの有名な聘珍楼の前で、赤いチャイニーズ・ドレスを着て「渚の『・・・・・』」を歌って、もう8年。……高井麻巳子が私の前に出現して、もう9年。……来年で、10年。…… 早い。……それとも? すごく長い10年間だったとは、思う。思うけど。 いや、やっぱり早いと、思う。思うよ。 当時、といってもここでは「ファイナル」以降のことだが、その当時から私のことを“公私”共によく知っていて、とりわけ“公”の部分で私と行動を共にしてきた早大YFC(夕やけニャンニャンファミリークラブ)並びにその周囲の“関係者”たちが、私がこれから高井麻巳子について語る言葉を聞いたら、ちょっと驚くかもしれない。 そうでない人は、別に驚かないだろう。驚かないだろうから、少しく事情を説明しなければいけないだろう。 昔から、「私」は常に「永田ルリ子」だった。私にとって、永田ルリ子に肩を並べることのできるおニャン子は存在しなかったし、そのことは上に書いた当時の周りのみんなも知りすぎるくらいによく知っている。それはこうして高井麻巳子のことをだらだらと語り続け、さらにどんどんと語ろう、私の中の「高井麻巳子」をとことん書いてしまおうと思っている今も、なんだかんだ言っても、やっぱり変わらない。 「永田ルリ子」は、最初の方でも少し書いたように、「不幸」であるとも言えるほどの属性を保ちつつ、私にとっていつでも「最高」であり、「中心」だ。すごく、とんでもなく平ったい、それでいてとてつもなく素直な言い方をすれば、おニャン子クラブ52+2人の中で、何をおいてもまず誰よりも、私は永田ルリ子が一番大好きだ、ということだ。 それでいて私は、決して「永田ルリ子イデオロギー」に染まり切った超原理的主義者ではないし、ましてやその思想の流布拡大を志向する膨張主義者でもない。改めて言うまでもなく、おニャン子クラブは、あるいは歴然とした個人差こそあれ、当然のごとくみんな好きだ。このことに関しては、本当に、誇張もなにもありゃしない。(そうでなければ、ここまで果たして続くものか) これ、つまり、おニャン子クラブをどうとらえるか(というと、なんだか小賢しく聞こえるが、決してそんなものではない。ある意味で実際上、とても必要なことである。イデオロギーという言葉をあえて使ったのも同じような事情からだ)には複雑な、それこそ関係者同志が四分してしまうほどの猛烈なイデオロギー的な論争があって、そう安易には説明できないし、また根本的に知らない人間にはかなり理解に苦しむであろうものだが、この文章のメイン・テーマは振り返るまでもなくあくまでも「高井麻巳子」なのだから今はとりあえずそんなことをここで書かないでいいとして、やっぱり、「永田ルリ子」が私という存在の中の動かし難い中心であるのと同じ比率で、私はおニャン子クラブが好きで、私の中で「永田ルリ子」が崩れてしまったらおニャン子クラブも崩れてしまい、おニャン子クラブが崩れてしまったら「永田ルリ子」も崩れてしまうとでもいうような、文字通り「表裏一体」のものであるということだけを原則として書いておけば、とりあえず十分かと思う。 だから、繰り返すが、それゆえに私は狂信的な「永田ルリ子イデオロギー」の信奉者でもなければ論客でもないし、反対に限り無く純粋に近い(純粋すぎて本当に存在するのかどうかまでが疑わしいような)「おニャン子クラブ平等主義者」でもない。もっともっと素直に、一番大好きなだけなのだ。 要するに、「おニャン子クラブ」というものが最大の前提にあって、その“旗”の下にそれぞれ“イチオシ”が異なるみんなが集まっていたあの時代ももちろん、それ以前も、それ以後も、永田ルリ子だけが、私の中では不気味なくらいに別格なのだった。 不気味なくらいに別格……一緒に行動してきた人間はみな、それを知っている。私の中の“別格”が永田ルリ子以外にありえないということも知っていて、誰でもがそれを認めていた。そして、ちょっとずるい表現をすれば、私自身までが、永田ルリ子そのひと“だけ”がそうだと思っていたくらいだ。 たしかに、それは事実なのだ。うまくは言えないが、そして誤解されるかもしれないが、何もかもをすべてはぎ取ってしまった究極の、一番根本的なところで、私には永田ルリ子しかありえない。付記が必要な数式ではあるが、まさに「おニャン子クラブ(夕やけニャンニャン)=永田ルリ子」「永田ルリ子=おニャン子クラブ(夕やけニャンニャン)」である。 ところが、私はここで、大変重大な告白をしなければいけない。 ……つまり、私の中の“別格”は、実は他にももうひとり、たったひとりだけ存在した、そしてそれは、高井麻巳子だ、ということだ。 私は永い間、「高井麻巳子」について、沈黙を守り通してきた。それは結果的に、私の周りの人間をだまし、それ以上に、先にちらっと触れたように、私自身をもだましてきたということになるかもしれない。 もちろん、“もうひとりの別格”とはいえ、それが決して永田ルリ子に及ばないこと、永田ルリ子はやっぱり、「不気味なくらい」と書いたようにさらに“特別格”で、この文章の主人公である高井麻巳子には正直に悪い気もするが、その「高井麻巳子」というもうひとりの“別格”から見てさえ、永田ルリ子は天の上のまったく別次元の存在のように、私にとって高い高い高すぎる、「最高」の「中心」であることに変わりはない。 言ってみれば、「永田ルリ子」は「月」だ。「月」であり、同時に常に私の周りを包んでいる「空気」だ。 足元から空の上まで「空気」はある。「空気」と書いたがそれはまた「空」でもある。そして他のおニャン子たちは、エベレスト、富士山、大雪山、蔵王、筑波山、浅間山、立山、乗鞍岳、白山、大山、阿蘇……そういった山々だ。当然、単に高さだけで当てはまるわけではないし、時と場合によって、それぞれの山に対する思い入れの度合いは変わる。仮に槍ヶ岳がおニャン子A、比叡山がおニャン子Bとして、あるときは高さゆえに槍が重要になり、あるときはまた高さ以外の部分で比叡の方が重要になることだってある。だから、穂高や南ア白根のほうが高いから常に開聞岳より大事だということでは決してないわけで、そういう意味で、「おニャン子」というそれぞれの山々は、極めて柔軟な動き方をする。 ……ともかく、もちろん便宜上の説明ではあるが、「月」「空気」「空」に比べて、その他のおニャン子は、私の中では例えば「山」とでもたとえられると、まあそういうことだ。 今までは、それだけだった。みんなは私のことを、そういうたくさんの山があって、それらのすべてをくるんでいる空気(空)があって、そうしてまたちょっと違うところに月がある、とそう思っていた。 かえすがえすもずるい言い方だが、私もそう思っていた。エベレストがどんなに高かろうと、高さで比べようにも「月」とは桁外れだし、「空気」「空」とも質が違って比べられない。そもそも比べる対象として別の次元に属するものであると。しつこいが、私もそう思っていたと、ここでは言っておこう。 ところが実は、そうした山のてっぺんと「月」の間にある「空気」あるいは「空」という部分には、地球で言えば「雲」という不思議な存在が浮かんでいる。何とも規定し難い、「雲」という不思議な存在が。……そして実は「高井麻巳子」こそ、そうした「雲」だったのだ。 もちろん、地球のそうした「雲」は、わかりやすいように高さで言えば、やっぱり「月」とは比べられない。「月」はもっともっと上の、もっとすごいところにある。けれど「雲」は、それでも地上の山々とは明らかに“別格”“別の次元”のものである。時に空に別種の美を添えることもあれば、空全体を暗く覆い隠してしまうこともある。とんでもなく高いところにあるかと思えば、時には山より低いところにだって漂う。世界中の何よりも真っ白に光りかがやくことがあれば、沈鬱に停滞することもある。……その多岐にわたる象徴的な意味合いの可能性はともかく、「月」はもとより「空」「空気」と同じく、「雲」は、単に高さだけでは比べられない。 「永田ルリ子」「高井麻巳子」は、簡単な比喩で言えばきっとそういう関係に近いのだと思う。まったく取るに足らないつまらないたとえで、書いているほうとしてもとりわけ意味を持たせようなんて考えはないのだけれど、とりあえずこのこと、私の中にふたりの“別格”が今までずっと、常に存在しているのだということを、「告白」を始めるに当たって、どうしても改めて言わずにはいられない。この告白の重大さと同じくらい、というより、ある意味ではまさにこのことこそが最大の告白であって、それは少なくとも私にとってきわめて重大なことだから。そして、私にとっての「永田ルリ子」というのは、序文でもしつこく書いたように、また何度でも繰り返す必要のある、私の文章を読むに当たって「前提」として知っておいてほしいことだから。 ともかく、そういう如何ともし難い「差」が存在するとはいえ(この「差」という言葉を否定的に見ないでほしい。むしろ積極的に肯定的に、あるいは少なくとも水平に見てほしい)、私の中にひとつではないふたつの“別格”が存在するという事実は、外の誰にもましてまず最初に私自身を驚かせ、私という存在を根底から揺さぶるものである。 映画「恋する女たち」。原作は氷室冴子。主演、斉藤由貴。主題歌も同じ。柳葉敏郎、原田知世の姉や、菅原文太の息子やあの室井滋も出ている。原作の舞台は北海道だが、この映画では金沢となっている。舞台が変わった分、画面の雰囲気も北海道色をすべてはぎ取り、徹底的に金沢ナイズドされている。金沢観光案内のふうもある……そういったことはまあ、どうでもいい。とにかく私は金沢という街が好きだ。だから何度も行った。そして、この映画が好きだ。だから何十回も見た。 封切りは1986年暮れだった。 私は永い間、本当に永い間、「高井麻巳子」と冷戦状態にあった。 もちろん、それは私の側の勝手な意識であって、彼女のほうには当然ながらそんな意識はなかったろうし、その当の私にしても、あまりに永すぎて、あまりに冷たすぎて、もう戦っていることすら忘れてしまっていた。 けれど、現実にその冷戦は、ずっとずっと続いていて、そういうように忘れてしまってすらいるようであっても、お互いがお互いを傷つける無益な戦い、もはや冷戦とも呼べないような熱い戦いはなおも続いていて、お互い知らず知らずに、消耗していく。ちょうど、ベトナム戦争のように。……そして、現実の問題として、一方的に傷つくのは、私のほうなのだ。高井麻巳子そのひとは、どこか遠くの、けれどとっても近い場所の、けれどとっても高い、とっても厚い壁の向こうにいて、お互いが戦っていることすらまったく知らずにいるのだから。 ……でも、高井麻巳子は、本当に、知らないのだろうか? いわゆる、87年の東宝正月映画。 「恋する女たち」が封切られた時期というのは、たとえば並べてみると国生が「あの夏のバイク」を、吉沢秋絵が「流星のマリオネット」を歌い、ラジオではすでに永田・白石・城之内による「TOKYOベストヒット withおニャン子クラブ」パートIIが流れ、満里奈が「ホワイトラビットからのメッセージ」を歌い、第2回夕ニャン正月特番が放映され、高校3年の私はほぼ2カ月後に大学受験を控え、にもかかわらず、美奈代の「TOO ADULT」、おニャン子クラブ“本体”の「NO MORE 恋愛ごっこ」、福永「僕達のRUNAWAY」(以上、発売順)などの発売を心待ちにしていた、そういう頃だった。(心待ちとは言ったが、それは決して手放しで楽しい時期ではなかった。むしろ、とってもつらい時期だった。具体的には別の文章か、もしくはこの文章でも後の展開如何に譲るけれど、少なくとも私にとって「夕やけニャンニャン」が、「おニャン子クラブ」が“あった”時期は、初めの頃のしばらくを除けばいつだって、手放しで楽しかった時期はなかったし、名状し難い不安、予感、怯え、そういったものに常に脅かされていたのだった。特にその時期も、永田ルリ子にかかわるいろいろな事情のゆえに、日々がとってもつらかった) ……そして、一見華やかに映るこの頃に、高井麻巳子本人も、おニャン子クラブとして1986年の最後を飾る、ソロ・シングル第3弾「約束」を歌っていた。 「約束」というのは、他人のような突き放した、冷静な言い方をすれば、とてもさびしいせつない曲調だった。 年末、慌ただしい頃。新田も、福永も、吉沢秋絵も、名越もスーザンも9月にすでに卒業してしまって。……どうしてあの12月、こうもさびしげな調べの短調の曲ばっかり続いたんだろう。師走の月、つまり忙しかった一年も終わりに近付いて、「約束」でその日の番組が終わるのが、なんだかむしょうにさびしかった。翌87年の一発目があの明るい「ホワイトラビット」だったから、なおのこと落差が激しかったんだろう。「マリオネット」はともかく(いや、やっぱり「マリオネット」だってきっとそうだ)「バイク」も「約束」も、とっても聴いててつらかった。 「♪約」「♪束」というサビの部分のメロディ、それに曲全体を通して歌うときの高井の気持ちを込めた、思い詰めたといえるくらいの表情も、おい、いいよ、やめてくれよ、ってついつい叫びたくなってしまうくらいに、年の終わりを余計にさびしくさせて。大きな声を出して震動を与えると、その震えの一つ一つのごとに、「高井麻巳子」は確実に、一つずつ、一つずつ、外の方へ行ってしまうような気がしてた。その頃はもう、夏をとっくに通り過ぎて、高井のことなんて“見ていなかった”はずなのに、それがとっても怖かった。 それでも「恋する女たち」は、なんとか見に行った。 当時すでに大学の推薦合格を決めていた“高井ファン”の某氏と一緒に川崎の映画館へ、たしか年内1度、年明け1度の2度行って、その2度だけで計5回見たような覚えがある。 5回も見れば、当時の若い頭で、ストーリーの流れ(この場面があって、次はどうなる、とか)などというレベルではなく、セリフまで2人とも全部覚えてしまって、学校で、それから学校の行き帰り(そいつは家が近かった)に、セリフを言い合っては笑っていた。少なくとも、それで楽しいと私は思い込もうとしていたんだと思う。映画のサントラ盤も買った。ビデオが出ればビデオも買って、前出の某氏と繰り返し見た。10回目なんて、アッという間だった。 そいつは“高井ファン”になって日が浅かったが、高井のことをどこか成城辺りのお嬢さんふうだと思っていた。だから、最初に映画を見たときは、ちょっとショックだったらしい。「高井さんに、あんなことさせるなんて」と。あんなことったって、それは単なる役回りだし、体操の時間にパンツが破れたのだって、エンド近くの「屈辱のパンティ」だって、つまりはただの演技、セリフなんだよ、だいたいね。30点、20点、0点、赤点の答案用紙の嵐、「高井さんがあんな成績とるなんて……」などなどなど。 ちょっとうらやましかったりもした。そいつはすごく素直だったから。自分のことを考えて、1986年秋以降の私が一体いつ、高井麻巳子に関して彼ほど“素直”になれただろう。答えは……一度もなっていないのだ。 だって、あの頃すでに、胸が張り裂けそうだったし。 (つづく) |