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 高井に関しては、実はそういうとても複雑な“事情”があった。
 しかも、その“事情”は、87年当時の昨日や今日に始まったことではなくて、もっともっと深い根を持っていた。つまり、1987年の“解散”後に出会った人には、私からすすんで話さなければ絶対にわかりっこないような、それ以前の私が個人的に活動していた時代の、ずっとずっと前の昔から尾を引いているものだった。
 言ってみれば、私にとってのそれは、夕ニャンという時間の流れの中で、「パレスチナ問題」や「カシミール問題」などのように、「高井麻巳子問題」とでも銘打てるほどの大変重要な、複雑な、一朝一夕には絶対に解決できない難題をはらんでいたというわけだ。
 そうして私は、そのことを誰にも話さなかった。それ以前も話さなかったし、当然YFCに入ってからは、おくびにも出さなかったはずだ。私はそもそも高井麻巳子についてのそのことを、誰かに話すことすら避けていた。それくらいに、「高井麻巳子」を避けていたのだ。第一、私自身に対して改めて問い掛けることすら、永い間避けていたほどだ。
 もちろん、外へのサインが何もなかったというわけではないだろう。そういうものは、たとえ意識して隠そうとしても、きっとなにかの形で表に現れてしまうものであろうし。……少なくとも、私が他のおニャン子に比べて、「うしろゆびさされ組」という形を除いてあまりに高井麻巳子のことを語らなかったということは、周りの人間たちが当時を振り返って思い出せば、おそらく感づくことなのではなかろうか。
 ともかく……要するに、私は「高井麻巳子」に関して、今まで誰にも明かしていないような、今でもそう簡単には明かせないような、けれどやっぱり今この時代、これから、ようやく思い切って明かさずにはいられないような、とっても大きな“秘密”がある、と、そういうことだ。



 高井麻巳子の実家、福井県小浜市の自転車屋に、2度行ったことがある。
 最初は一人きりで、1988年7月の半ばを過ぎた暑い日のこと。そして2度目は、コードネーム(?)を「春」「冬」という友人2人(そして私は「秋」)とのあやしい3人組で、90年の9月、たしかF1のポルトガルGPが行われた日だった。
 自転車屋は、若狭湾巡りの観光船発着所も兼ねたちいさな港に近い所で、メインストリートの小浜駅前通りからはいくらか奥に入っているが、駅から歩いても15分、20分くらい(直近から4年経っているのでいまいち記憶が定かでない)。小浜市役所からもそんなに遠くない、まあ、東京の常識からいえばかなり便利な所だったとは思う。裏通りではあったけれども、自転車屋から駅のほうへ続く道は、北陸の古い町並みという言葉がピッタリくるような通りだった。小浜というのは昔、京都の高貴な方々にサカナを運んだ「街道」の出発地でもあるから、北陸というイメージに加えてやはり京風な優雅さみたいなものもどことなく漂っていたし。港に近いせいもあって、また一応は名の通った観光地だからすぐ近くに旅館やホテルが何軒かあって、人通りは少なくなかった。それに、最初の訪問のときは、どういうわけか自転車屋のそばには、地元の純情そうな少年たちがバイクで集っていた。それが妙に印象に残っている。
 その頃はサイクルショップ(「タカイサイクルセンター」。富士サイクル系だったと思う)経営の高井の父氏は健在で(今は知らないけど)、最初に行ったとき、私がなんとなく店内を覗くと、座っていた彼と視線が合って、彼はなぜだかニッコリ笑ってくれた。
 おそらく、何年間に何百人、あるいは1000人をも平気で超える数え切れないほどの見知らぬ「野郎」が訪れて、彼の能力の中に、そういう人間を一発で見抜く力が組み込まれてしまったのだろうか。それとも、日頃は無愛想だけれど、ただ私の運がよかっただけなんだろうか。個人的に彼のことをよく知らないから、何とも言えない。
 ともかく、人見知りの私はただニコリと笑い返すだけで、そのまま自転車屋の前を離れてしまったが、私のその最初の訪問の直後に自転車屋を訪れた金沢に帰省中の某友人(“イチオシ”は高井だったはず)は、なかなかの交際家とあって、しばらくその愛想のいい父氏と話し合った(?)そうで、あげくにそこで真赤な自転車を1台買い物し、東京まで送ってもらったという逸話がある。もちろん、さめた言い方をすればそれは「商売」なんだけれども、そんなことにも気前よく応じてしまうほど、高井父氏はやっぱり愛想がよかったのだと、私の中では思われている。
 それとこれ、つまりこれから「高井麻巳子」について書こうとしていることとは、直接関係ない。
 けれど、やっぱり関係があるんじゃないかと思わせてくれるほど、小浜という所はとってもいい所で、とっても高井チックだった。ロマンチックとか風光明媚とか洗練されているとか妙に粋だとかそういうきれいなことだけではないし、反対に田舎っぽいとかどんくさいとか素朴だとかそういうことだけでもない。とにかく、高井チックだった、と、そうとしか言えない。だから、あすこに2度行けたのは、とてもよかったと今でも思う。本当にそう思う。また行ってみたい。そして、高井が大好きだった「真珠浜」の潮の香りも、また、からだいっぱいに浴びてみたい。






    〜高井麻巳子を語るとき〜



 「高井麻巳子を語るとき」……などとちょっと大仰な構えをしなければならないほど、彼女を語るのは、一方でごくごくしぜんなことであるのと同時に、やはり肩の張る、緊張に満ち満ちたものだ。上に書いたように、何しろブランクがあって、とにかく“避けていた”のだから。やっぱり、こうして今「ようやく語れるようになった」というのに近い。
 思えばいつ頃からだろうか、こういうふうに、高井麻巳子に対して、“素直”に接することができなくなったのは。

 思い返してみると、1986年の春先、あの名曲「アンブレラ・エンジェル」の頃は、まだよかったのだ。だからおそらく、中島美春、河合その子というふたりの“卒業生”を出すこととなったおニャン子クラブ初の全国縦断コンサート最終公演の武道館ステージも終えて、つまりその年の4月を迎えて以降のことなんだと思う。
 ……何があったというわけではないだろう。4月から6月にかけてのいろいろな出来事、たとえば「象さんのすきゃんてぃ」が個人的に好きな歌で、それ以外の場所でもこの曲がいろいろと“紛争の種”を抱えていたからといってどうということもないし、3スタで目の前で生の「猫舌ごころも恋のうち」を聴いたことだって直接関係はない。「シンデレラたちへの伝言」のソロ・デビューだって、言ってみれば“既定路線”以外の何物でもなかった。おばあちゃんからの電話で高井が泣いたからといって、夕ニャンでも毎日すました顔をして歌っていたからといって、それがなんだかすごい契機となって、私にとてつもなく強烈なパンチを食らわせたとでもいうのか。
 ……とってもとっても、なんでもない事情だったんだろうと思う。傍から見れば、ね。でも、私にとってはきっと、そんな簡単なことじゃ、なかった。ソロ・デビューとか、泣いたとか、そういう単発の事実できっかけが語れるような、そんな簡単なことでは。
 もちろん、夕ニャンのほうに何かがあったということもあるだろう。

  ・富川春美は髪型を変えた
  ・美奈代をみんなで人形に仕立てあげた
  ・満里奈の赤いほっぺがだんだん赤くなくなった
  ・「寮」から工藤がやって来た
  ・ニャンギラスはあれでいてかなり落ち着いてきた
  (白石麻子がオトナになったというわけではないけれども)
  ・立見、内海が石橋貴明と闘った
  ・こニャン子クラブの会員がとてつもない数になった
  ・夕食ニャンニャン。“司会”の河合その子
  ・横浜のコンサートがあった
  ・ロサンゼルス(!)に出掛けた
  ・映画が出来てしまった
  ・国生はまだ、むしょうに張り切っていた
  ・新田が、ちょっとついて行けなくなった
  ・福永も
  ・そんなこんなで「渚の『・・・・・』」が歌われるようになった

 ……おそらく、そんなことだろう。そういった、ごく“普通”の、なんでもない出来事の積み重ねなんだろう。
 そんな、なんでもない番組での一つ一つが、なんだか、私を高井麻巳子に触れられないように、次第にしていったのだ。沖縄での水着を、横浜中華街の「夕陽猫猫」でのチャイニーズドレスを、私はすでにまともに見られなくなっていたようだ。もはや秋の「メロディ」も冬の「約束」も関係ない。その頃には、すでに手遅れになっていたのだ。(……とりあえず今は、「たぶん」「そんなことだろう」と言っておく。まだ私も、正直なところ模索者の一人であるから)
 私が高井麻巳子の姿を“見なくなった”のは、おそらく、あの夏なのだろう。「おニャン子クラブ」が一番盛り上がって、向かうところ敵無しの快進撃で、後に誰に聞いても「不安はなかった」と答えるあの夏。私だけが、かねがね「いや、そんなことない。とっても、とっても不安だった」と言い続けていた、あの夏。当時の日記にも、誰がいいとか何がいいとかいった喜びと共に、毎日毎日、そんな不安が書き連ねてあった、あの夏。
 そうだ、間違いない。
 ……ただ、もちろん、それだけが理由ではないだろう。高井のほうにだって、当然、“原因”はあったはずだ。
 ともかく、きっと、“あの夏”に鍵がある。私と、高井麻巳子との関係をあるいは明確に示してくれるかもしれない、風船爆弾のような鍵が。
 「まみちゃん」って素直に、ずっと呼んでいない。
 なんだか、そう、呼べない。



 1988年4月28日のよみうりランドEASTは、そんな無意識のむしゃくしゃが、爆発したのかもしれない。
 その日、日本全国で、あるいは東京全域で雨が降っていたかどうか、もう記憶は定かではない。
 何年も前のことで、覚えちゃいない。けれど、少なくとも神奈川県川崎西部と東京多摩地区、いわゆる多摩丘陵と新宿富久町だけは、篠つく雨だった。富久町の当時の“アジト”の一つを出撃した徹夜明けのわれわれは、気持ちも勇んでよみうりランドEASTへ向かった。そして、そのどしゃぶりの雨の中、背番号「18」の早稲田ラガージャージ、当時のトレードマークのそれを身に着けた私は、他の客がみな例外なく前の客席のほうに座っていたにもかかわらず、われわれ『○』(Circle)の仲間数人だけで、「テンダー・レイン」とは程遠いその雨ですべるEASTの傾斜のきつい広い広い芝生席で、転びながら、走り回り、ドロドロになって「まみちゃん!」「まみちゃん!」「まみちゃん!」と、叫び続けた。
 それからいったい、どれくらい経った後だったというのか。あの「結婚」という冠が付いて、「高井麻巳子」の名前が報じられたのは。

 ごく最近、友人から聞いたところでは、しばらく前からおニャン子ファンの一部で、高井麻巳子のことを責める動きが生まれているという。
 もちろん、責める対象は、「結婚した」ことである。
 「結婚」という事実を、私はどうこう言うつもりはない。
 私にそんなことを言う権利はないし、そんなことで彼女を責める権利もないし、誰だって、当然のことなのだから。第一、責めようとか、干渉しようとか、そんなこと自体ちっとも思っちゃいない。
 けれど、私は上に書いた、その「ファン側」の責める気持ちに、ある部分で理解はできるということを言ってはおきたい。
 私が理解を示すのは、繰り返すように高井麻巳子が、あるいはおニャン子が「結婚する」、あるいは「結婚しない」という、純粋な行為自体を責めるとか、そういうことに対してではない。
 当たり前のことだ。それこそまったくの越権行為だ。高井麻巳子が結婚しないなんて、おニャン子が結婚しないなんて、どこの誰が決めたというのだ。
 そんなこと、私だって、私の周りの人間だって、誰一人本気で信じていやしなかったはずだ。祈るとか、そう願うとかいうのは話が別。いつでも迫り来る可能性のある“悲劇”への心の準備はまだまだできていなかったかもしれないけれど、準備どころかそういう未来像すらきちんと焦点を結んだものとしては浮かんでいなかったかもしれないけれど、本当のところでおニャン子がみんな、やがては誰かと結婚するんだということは、本当は、ほんとうは、誰だって、知りすぎるくらいに知っていたはずだ。だから、私が言いたいのはそういうことじゃない。
 私が言いたいのはそういうことじゃなくて、ただ、あの時期、まさにここしかないという見事にポイントを射たあの「時機」に、高井麻巳子が誰よりも真っ先に結婚したことで、そして、それがまるで呼び水になったかのように、あの“第二の”結婚が間髪入れずに続き、“結果的に”われわれ、私に「高井麻巳子」と「永田ルリ子」というふたつの名前をより呼びにくくさせ、さらに“結果的に”われわれの活動を壊滅させた、その歴史的事実を、われわれも、そしておそらくは「高井麻巳子」「永田ルリ子」というふたりの人間自身も、避けては通れない……と、そういうことだ。
 だからこれは、責めてなんかいるんじゃない。むしろ自分に対してすらつらくなるくらいにあくまで冷徹になって、ただただ“事実”を述べているだけだ。
 簡単に言ってしまえば、「高井麻巳子」というひとは、そして同じように、やっぱり……「永田ルリ子」というそのひとも、われわれのような人間がいることを知りながら、そうすることによってわれわれがいったいどうなるのか、そういったすべてのことをよく知っていながら、“結果的に”われわれを置き去りにして、逃げてしまうという形になってしまったのだ、と。そう言われても、たしかに、仕方ないのだと。
 われわれだって、私だって、本当に心の底からはそんなこと思っちゃいないし、死んでもそんなことは言いたくないのだけれど、そんなわれわれに、私に、そんなつらい言葉を吐かせてしまうほど、あなたたちは早々と、何かを知りつつも、何もかもを知りつつも、“逃げた”のだ、と。
 あの時期、われわれは、失われた何かを“再興”するために(そんなこと、できるわけなかったのだが)、その正体すら明確にはつかめないまま、日々流れる時間に乗せられるまま、再び何かを見つけ出すために、毎日毎日、ひたすら奮闘を続けていた。たしかにそうだ、そんなこと、まったくもってわれわれの勝手だし、そのことと「結婚」とを結び付けるなんて無茶だ、言語道断だと言われれば反論の余地もないし、そのわれわれの“勝手”に、あのふたり共が主体的にかかわってはいないということも、まったくその通りなのだ。
 ……たしかにそうだ、そうに違いない。あなたたちには、そんなことをする必要はなかったのだし、それはあくまでも、とことんまで、われわれの側の、われわれの勝手に属するものだったのだし。
 しかし一方で、われわれには、自負がある。
 あの一連のムーヴメントを、100%ではないにせよ少なくとも単純に割っておニャン子本人たちが33%、周囲のスタッフ・関係者が33%として、残りの33%を、間違いなくその3つの「当事者」の一つとして、私たちファンのみんなが、作り上げるのに貢献したのだ、だからこそ、われわれは「当事者」の一部なのだ、という自負を。
 その自負を、あのまさにあの時期に、行為なり思想なりで形を与えてやると、それはどうしても、ああいう姿で現れるしかなかった。そういう、ある意味で必然的な状況。すべてをあくまで“勝手”と呼ばれるにはいくらか忍びない一つの“現象”。……それこそあれもが“ムーヴメント”だったのではないか、と。
 おニャン子クラブは、“解散”した。けれど、翌88年初夏のあの頃、確実に、あの“ムーヴメント”は、まだまだ終わってはいなかった。
 それを、当事者の一つである「おニャン子」の高井麻巳子が、そして、永田ルリ子が、何も知らなかったのか、あるいは、読み違えたのか、それとも、知っていて意図的に終わらせようとしたのか、はたまた、“逃げた”のか……。
 結論は私には下せない。ただただ、状況が突然目の前に出現し、そうして私たちの“勝手”も、行き場を失ったのだった。

(つづく)




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