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| 第1部 1994年夏の終わり 高井麻巳子 〜最初から、ちょっとばかり、ぶつぶつ〜 高井麻巳子について、何か書きたい、書いてみたいと、ずっとずっと前々から思っていた。 その思いを忘れていた時期も、あったかもしれない。それに……。 それに、正直言って私は、この数年間、ずっと高井麻巳子を避け続けていたのだろう。高井麻巳子だけじゃない、おニャン子クラブに関するすべてのことから、逃げようとしていた。 いや、そこまで言い切るのも、まったく本当とは言えないかもしれない。私の心はもっともっと混沌としたものだった。 むしろ、要するに、私はおニャン子クラブについて、永い間あいまいな状態で過ごしてきたのだ。あいまいな……逃げる、避けるにしてもそれほど徹底して逃げ、避けていたのではなくて、もっとあいまいに、付かず離れず、といった感じで。それに第一、本当に逃げ、避けてしまうのは、怖かったし。 いろいろなことがあったし……そう、本当にいろいろなことがあったから。けれど、誰もが知っているそういった“諸般の事情”を別にして、その考え……高井麻巳子について何か書きたい、書いてみたいということを、おそらく私は一時も忘れることなく、ずっとずっと思い続けてきた。 なぜなら、どんなに逃げようが、避けようが、あいまいにしようが、私はあくまでも、そしてこれ以上になく明白に、おニャン子クラブのことが、永田ルリ子のことが、同じように高井麻巳子のことが大好きであるということ、その、押しても叩いても、どんなに激しい雷雨に打たれてもどんなに深く雪が積もっても、まったく壊れそうにない、いや私が生きている以上絶対に壊れない事実があることには、変わりないからだ。 ……今、火を付ける前のショートホープを一本口にくわえて、すっと吸い込んでみると、そのクセのある葉っぱと巻き紙の匂いが、初めてショートホープを吸った1988年2月のことを思い出させ、そしてその頃もやはり大好きだった高井麻巳子のことを、いろいろと思わせてくれる。 あの“地獄の初夏”から後、考えもしなかった、おそらく、いや間違いなく考えることさえ避けていた、高井麻巳子のことを。 そうしてまた、こうして、私が辿ってきた時間の流れを復唱するように、もう一度ここで、この最初の場面で、まず何より高井麻巳子について書くことは、私にとって一から新鮮な気持ちでやり直す、運命づけられたような再スタートの地点となるのだ。 彼女との出会いは、1985年4月。 その頃はまだ、毎日ビデオに録って見るとか、あるいは当然のことながらそのビデオを保存するというほどではなかったが、当時高校2年でいわゆる帰宅部だった私は、常に夕方どんなに遅くとも5時までには家に帰り、「夕やけニャンニャン」を見ていた。 私はその4月からアルバイトを始めており、それは家のすぐ近く、自転車で飛ばして10分ほどの所で、夕方6時からのファミリーレストランの厨房勤めの仕事だったが、仕事を始めたそばからすぐに、ほぼ毎日数分あるいは十数分の遅刻をするのが“日課”になっていた(おかげで、タイムカードにはいつも18:04、09、11などと記されていた)。それを当時のアルバイト先の責任者、何という名前だったか、ちょっと覚えていないが、その彼にいつもチクチクと言われていたものだった。 なにしろ、アルバイトを始めた直後からそんなようなわけだったから、たしかにまったくふざけた話で、今思えば責任者の小言も当然であったわけだが、私はその頃から結構さめていたので、まあいいじゃない、1/4時間分損をするのは他でもない自分なんだし(その会社の時給は15分単位だった。だから、タイムカードに記される遅刻が3、4分にしても12、3分にしても時給としては同じだった)、そのくらい遅れたってレストラン営業のほうにも実害はないでしょとでもいった、気にして態度を改めるどころかとことん開き直った感じだったのをよく覚えている。生意気な少年だった。 毎日そのように遅れた理由は他でもない、5時50分頃まで、日によっては55分、あるいは57分頃の番組終了まで、フジテレビの“新番組”「夕やけニャンニャン」を見ていたからだった。 その年の3月まで「毎週土曜日の夜中はオールナイトフジ!」と欠かさず見ていた私や私の周囲の友達にとって、当時明確に「オールナイトフジの夕方版」と位置付けられていた夕やけニャンニャンをなんとなく習慣的に見てしまうことは、決して偶然でもなければ特別な意気込みを持って臨んだのでもなくて、まったく、ごくごくしぜんな成り行きだったのである。ましてや、東京大田区の蒲田・羽田界隈という土地柄もあって、中学生の頃から手に負えない“新人類”のはしり、軟派な不良とでも呼べるようであった私たちの間、しかも偏差値53、4のごく平凡な都立高校のこと、オールナイトフジ同様夕やけニャンニャンもきわめて“普通”の番組として、4月の放送開始からごくごく当然の事情、既成事実の「ブーム」として受け入れられ、盛り上がっていたのだった。 そんなある夕方、私は高井麻巳子に会ったのだった。 忘れもしない、原宿の、竹下通り。 雨模様の暗い空を吹き飛ばすような、伊藤克信が一瞬の視線の妙技とイキな計らいでたまたま見つけた“ちょっといい”女の子。 ピンクの傘を差して、グレーの服を着た女の子。 伊藤克信にマイクを向けられ、ちょっと戸惑い、うつむき加減の彼女。なんとも言えないあか抜けない声。目尻からこめかみの方へ抜ける、いかにも田舎っぽいイメージを現す線。……髪、声、目…… オールナイトフジからそのままの流れ込みでそれなりに盛り上がっていた周囲の友達ともまったく違う性質の、私の「夕やけニャンニャン」への本格的な没入が始まった、つまり導火線に火が付いたのも、たしかに、そのピンクとグレーのあか抜けないひとりの“ちょっといい”、いやとってもいい女の子との出会いからであった。 伊藤克信に夕ニャンに出ないかと言われて思わずうなずき、翌週、本当に夕ニャン「ザ・スカウト アイドルを探せ!」のコーナーに登場してしまった彼女が、茶道のまねごとみたいなことを恥ずかしげもなく披露し、水曜日の「特技披露」では似合わない化粧をしてぼってりした赤い服で松田聖子の「青い珊瑚礁」の物まねをして浮きまくり、翌日にはプロモーション・ビデオで強烈な「シャワー・シーン」を経験して“短い足”をも大胆に公開し、金曜日、どんくさいピンクの水着を着て見事合格し、さらに翌週、「おニャン子クラブ会員ナンバー16番」という“肩書”をもらって正式に番組に出るようになってしばらく経ったゴールデン・ウィーク明けのある日、私は早々と、始めたばかりのアルバイトをやめてしまった。 高井麻巳子……たかい・まみこ。 (そうしてそれから1週間くらい経って、私にとって最も運命的なもう一つの、最大の出会い、「アイドルを探せ!」に永田ルリ子が登場することになるのだが……) 1987年9月20日の東京代々木第一体育館「おニャン子クラブ・ファイナル」コンサート以降、早稲田大学のYFC(夕やけニャンニャンファミリークラブ)に活動の場を移してから、もちろんふざけ半分の一種の遊びとしてではあるけれど、なにかと仲間内で各々の「ランク」を付けることがはやった。たとえばあるときの私は、1位白石麻子、2位我妻佳代、3位新田恵利、4位横田睦美、5位岡本貴子、などなどなど、といった具合だ。 当時の私の「おニャン子ランク」には、永田ルリ子は決して「1位」として登場しなかった。1位どころか、「ランク」のどこを見回しても、絶対に彼女の名前はなかった。彼女の場合、「ランク」を付けるなどということは、当時の言葉で言えば「失礼」極まりなく、私にとっては常に「ランク」の外の別の位置、最高の位置にいたからなのだが……。 ともかく、だいたい1位は決まって白石麻子ということに私はしていて、あと2位以下をそのときそのときの状況や心境でいろいろと変えたりしていたのだが、どういうわけか永田ルリ子の他にも、高井麻巳子という存在はやはり決して「ランク」に入ってくることがなかった。 国生さゆりも、新田恵利も、渡辺美奈代も入った。横田睦美も布川智子も、生稲晃子も吉沢秋絵も。渡辺満里奈だって入った。なのに。 どうして? 不思議なことである。周りから“非難”を浴びるほどの特別扱いで、まさに私にとって文句無しに最大の、後には「不幸なほど」とさえ言われるかもしれない「属性」のようにも見られていた永田ルリ子の存在は、それ以上いくら特別扱いになろうとて、私自身にも周りの人間たちにも「特殊性」といったその辺の事情が完全に浸透していた(あるいは、浸透しないわけにはいかなかった)がゆえに、殊更意外な印象などけっして巻き起こしはしなかっただろうからともかく、一見私にはあんまり関係がなさそうな、それゆえに他のおニャン子と同じようにその時々の「ランク」にだって堂々と入っておかしくないような、しかもあれほど“ビッグ・ネーム”だった高井麻巳子までが、どうして……。 おそらく、ベスト5や10といった形で毎日のようにやっていたその「ランク」に高井麻巳子がいつも入っていなかったからといって、私の周りの人間は、もしそれに気付いたとしてもただ「それほど(私の)高井に対する“評価”が高くないんだな」と思っただけなんだろう。 ただそんなふうに、ひどく簡単にとらえられていたんだろう。第一、私にとっての永田ルリ子という存在があまりに強烈すぎて、また、彼女を除いた「ランク」の1位が、最初のわずかの頃(87年10、11月頃)は我妻佳代、後には完璧に白石麻子というように固定されていた状況からして、誰もそんなことには気付いていなかっただろうし。 それに、私が永田ルリ子をはじめ白石麻子、加えて時に横田睦美辺りの「担当者」であったように、高井麻巳子の「担当者」も当然の如く他にいたから、そんなような環境からもおのずから“状況”が勝手に整備されて、誰も不思議には思わなかったんだろう。 YFCが雑誌を出すことになった関係上、それぞれのおニャン子のコラムなりコンレポ(コンサート・レポート)なりを書く「担当」というものが歴然と決まっていて、たとえば私が編集長兼永田・白石担当、誰々が幹事長兼生稲晃子担当、誰々が渡辺満里奈担当、他にそれぞれ美奈代担当、新田担当、工藤担当、我妻担当、斉藤満喜子担当などというようなものがあったのだが、それは雑誌を離れたところでも、次第にたんなる「担当」以上の“縄張り”、いわば昔ふうに言えば完全に“セクト”化したようなものとなって、YFCの中に不気味に出来上がっていった。 (そのそれぞれの“セクト”の派閥横断的な現象としては、たとえば後に一部の“セクト”……これはおそらく、他でもない“永田セクト”、つまり私が中心となっていたもののことを指すのだが、そこではYFC本体を“党”とすればまさに別動の“超党派”的なつながりすら逆に生まれて、YFC外で個人あるいは集団で活動していた“永田派”人間を中心に、YFCの中心機構とは関係なくその“セクト”に吸収して膨れ上がっていったくらいだった。YFCの雑誌『○』(Circle)というものの性質自体が、まさにそういうものだった) それはともかく、また各々の“セクト”は、当時の各々の“状況”からして、気が付くと当然のようにまさにセクト的に尖鋭化して、それぞれ明確かつ侵すべからざる領域、“専門分野”、そのひとのアイデンティティーであり他からの確認の標、他の誰にも譲れない“王国”というにも近いような状況にまでなっていったのだった。 そこまで切羽詰まった状況にまで進展させてしまった責任を追及されるとしたら、その一端は、いつかどこかで書く機会もあるだろうがそれこそまさに切羽詰まっていた“内部事情”から発した“永田セクト”に帰せられることはたしかなのだろう。しかしそこには、「おニャン子クラブ」というものに対する見方、考え方、さらにもちろん当時の大変な事情・状況などが複雑に絡んでいたわけだ。それをここに書くのはやはり適当でないし、長くもなろうから、いつかきっと別の場所で書いてみたいとは思う。 話が高井麻巳子に戻るが、そんなような時代以来のこと。いわば、言いようによっては、私は今までうまくだましおおせてきた、あるいは自分自身をもうまくだましてきた、ということか。 ……もちろん、当時も高井麻巳子の私の中での“位置”が、「ランク」に入らないほど低かったというようなことはないし、ましてや“評価”自体がそれほど低かったなどということは絶対にありえない。 彼女の存在、彼女との出会いは、私と夕ニャンとの本格的な関係の契機であるし(このことは、それまでの「オールナイトフジ閥」から完全に抜け出すきっかけとなったという重要な意味をも持つものだ)、それはたしかに忘れられない衝撃であった。だから当時としては、漠然と避けていたというよりは、それこそまたある“事情”、私がそこへ行くまでに形作られてきた状況のゆえに無意識のうちではあったかもしれないが(もしくは、知らないうちに無意識になったのか)“避けていた”もしくは“避けずにいられなかった”というのが、まったく本当のところだ。 なんかこう、これは、そうやすやすとは触れられないな、というようなところがあって。……こう言うと、ひどく簡単に聞こえてしまうだろうか。 新田は「ランク」に入れられる、国生も、福永も、河合その子も岩井由紀子(ゆうゆ)も入れられる、でも永田ルリ子と、そして高井麻巳子は、どうも……という、奇妙なこだわりが。 (つづく) |